『地下室の労働者』
アロッタファジャイナ番外公演『クリスマス、冬の演劇祭』@渋谷ギャラリールデコ。
一日6組による6公演という、大変精力的な、演じる方も観る方もなかなかにナカナカな公演の中のひとつ、青木弟組公演『地下室の労働者』。

前回8月末の番外公演にはありませんでした青木弟組。「日本語を使わない」という芝居。
受付にて、今回の芝居のコンセンプトから始まり、台本、稽古を経て、本番にいたるまでの2ヶ月間を網羅した作品集を配っていたそうですが、入手しそびれましたので、想像で書かせていただきますと。

最初は全編にわたって日本語、つまり意味のある、意思の疎通の出来る言語は使わないのかと思っていました。もちろん役者たちはセリフ(と思しきもの)はしゃべっています。が、ある時、労働者を(恐らくは)不当に働かせているであろう男が日本語をしゃべります。
え?とびっくりしました。ということは、これは、言語を使わないのではなく、外国語なのだ。と。
言語の違いというものは、思考体系や行動様式を大きく左右するものです。で、注意深く聴いていると、どうやら、あまり長い文章を喋るものはいないようでした。あるものが喋った単語をまたあるものが繰り返しその言葉の中にうけとめて喋っていることもありました。
セリフの上でも言語らしいことになっているようでした。

そう思うと、台本はどうなっているんだろう。と考えます。最初は全部日本語で意味の通るものになっていて、そこに(恐らく架空の)外国語をあてはめて。という作業になっていたのかしらと。
今回の作・演出の青木康浩さんが外国語に堪能なのかはわかりませんが、そうじゃないとしたら、物語は日本語で考え日本語で書き、日本語の文法、話法でセリフ割をし、それを外国語にトランスレイトして。。ということになったのじゃないかなと、勝手に想像してみました。

外国語を喋っているひとを傍からみて、わ!このひとたち喧嘩してんのか!!と思って訊ねてみると普通に話してただけ。と知ってびっくりした経験がありますが、話している内容がわからないと、とんちんかんな印象をうけてしまうことが多々あります。

何が言いたいのかというと、言語に拠らない芝居ということは、観客の想像力との共同作業になるわけで、観客として想定されているのが日本人ならば、そこは日本人の想像によることになり、日本につれられてきた外国人がこう振舞うであろう、と日本人が想像することをよりどころに、作る側も観る側も進むことになるんだなと。
それが、日本につれられてきた外国人がこう振舞うであろうという実際とは違っていても、それはそれでいいんだろうな。と。
そんな、なんだかまとまらない結論らしくもないことを思ったしだいです。

ということで、日本人である僕が今回の芝居を観て感じ取った、とりあえずの上っ面のあらすじみたいなものを書いてみます。

日本(これは、日本語とそうでない言語によって上演されているから即座に日本である。と捉えてもいいし、そうではなく、母国から離れた労働者の話で、つれられた先は母国ではないどこか。と捉えてもいいわけですね。)に連れてこられて、あるいは不法に入国して、日のあたらぬ地下室で不当労働をしいられている外国人たちが、それでも祖国にいるときよりもいい生活をおくれており、そんな環境でもいくばくかの幸せを見出して、つつましく暮らしてたが、徐々にその環境にも不満を抱き、あるいはその国民性からなのか、金目のものをくすね始めたところを日本人に見つかり、連れ去られた仲間にふりかかる暴力と思しきものにもなすすべなく、また同じ生活を繰り返さねばならない自分たちに嫌気がさす。

という物語にみえましたが、どうだったのでしょうか。

地面に近いところでの芝居が多かったので結構観にくかったのが残念でしたけど、目が離せませんでした。


and Peace!
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by hajimechan74 | 2007-12-19 10:17 | 舞台映画鑑賞
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